『新藤兼人の映画著作集Ⅰ―殺意と想像―』(1970年、ポーリエ企画発行)より抜粋
溝口監督が、『浪速悲歌』『祇園の姉妹』につづいて、新興キネマ(いまの東映大泉撮影所)で『愛怨狭』を撮ったのは、昭和13年のことである。そのときわたしは美術の助手をしていてその仕事についた。美術助手をしながらものにならないシナリオをせっせと書いていたのである。新興キネマは三流の映画会社で、お涙もののメロドラマばかり作っていたので、溝口監督のセットの仕事ぶりをみて、身のひきしまるような思いがした。午めしになっても溝口監督はセットから出てこない、監督椅子にかけたままカレーライスを食べている姿を、しばしばわたしはみている。この人に師事して仕事をおぼえたいとわたしは思って、京都に帰った溝口さんを頼って会社をやめて東京を離れた。新興キネマ、大映映画、日活が合併して大映になるときで、わたしは思いきって京都へ行った。
溝口さんという人は、自分の仕事のためならあらゆるものを一度は口に入れて味をみてみる人である。溝口さんは一人前のライターでも扱うような態度でわたしを迎えてくれた。どの新人にも最初はそうなのであるが、わたしは溝口さんの知らない温かい一面を見直すようなつもりで、京都へ居を移したことがよかったとよろこんだ。
早速シナリオ一本を書いて溝口さんの所へもっていった。その頃溝口さんの家は御室仁和寺の山門の前にあって、生垣に囲まれた手ごろな二階家であった。あたりは品のいい住宅地で関西好みの石崖と植込みのしずかな一郭であった。
シナリオをさし出すと、溝口さんはうれしそうに顔を崩され、そうかね、書いたかね、読ませてもらいましょう、あしたきてくれ給え、などと上機嫌で、散歩に仁和寺の裏山へ行ってみよう、と誘ってもらったりした。
翌日、行くと座敷へ女中さんに通された。間もなく溝口さんがわたしのシナリオをもってこられて、ぽい、と投げ「これは君、新藤君、シナリオじゃないね、すじ書きですよ」といわれた。
これは、わたしが書いた『愛妻物語』というシナリオの一場面である。その日わたしは、どういう風に溝口宅を辞して、どういう風に下鴨宮崎町のわたしの家へ帰ったか、ぜんぜんおぼえていない。気もそぞろであった。まさに一刺し刺し貫かれたのである。生活と人生を賭けて京都へ移ったのである。その頼みとする相手から、君はダメだ、とやられてしまったのだ。
溝口さんには手加減というものがなかった。いまでもわたしが懐しくその心情にひたりたいと思うのは、そのきびしさの見事な構えである。東京から頼ってきた新人のシナリオ・ライターだから、手加減して批評をしようなぞというなまぬるさはないのだ。むしろわたしのシナリオをみて腹が立ったのかも知れない。そのとき、あまりのショックにわたしが自殺したとしても、溝口健二はびくともしなかったにちがいない。そのときのわたしも手加減されていたら、きょうまで生きてきたかどうかは疑問である。
溝口さんが子役に演技をつけるときもそうである。子役であろうと対等なのである。それは溝口健二が全身でぶつかってゆくところの一個の孤立した存在なのである。新人であろうと子役であろうと、抜身を構えた真剣勝負の状態になる、相手を刺すか刺されるかが待っている、溝口監督に刺し殺されてダメになった人は実に多い。
仕事は、人間を殺すのである。新しい一つの仕事はシナリオを刺すのだ。既成を一つ刺し殺したとき一つの仕事が生まれるのだ。一人のシナリオ・ライターは、だれかを確実に刺し殺して生まれ、いつかだれかに刺し殺されるだろう。シナリオとシナリオが仲よく同居することはない、たおすかたおされるかである。わたしは悲壮がっているだろうか、そんなことはない、わたしは過去のでこぼこの長い道を歩いた経験でそのことをよく知っている。(続く)