(2012年、79分、わたなべりんたろう監督) http://311everydayliving.com/ (公式サイト)
◆7月18日(水)午後6時開場、6時30分上映、会場:右岸の羊座
問い合せ・申し込み:右岸の羊座まで℡022(721)1094またはuganhits@gmail.com
主催:Tieni (ティエーニ)
(2012年、79分、わたなべりんたろう監督) http://311everydayliving.com/ (公式サイト)
◆7月18日(水)午後6時開場、6時30分上映、会場:右岸の羊座
問い合せ・申し込み:右岸の羊座まで℡022(721)1094またはuganhits@gmail.com
主催:Tieni (ティエーニ)
明日7月7日(土)一日貸切のため営業をお休みいたします。
◆お知らせ
7月5日発売の「キネマ旬報2012年7月下旬号 No.1615―文化映画紹介」にて、青池憲司監督の証言篇『3月11日を生きて〜石巻・門脇小・人びと・ことば』が取り上げられました。
明日6日(金)も4日(水)に引き続き、映画『内部被ばくを生き抜く』上映会を開催します。午後6時開場、6時30分上映開始、料金800円(軽食付き)です。問い合せ・申し込みは℡022(721)1094またはuganhits@gmail.comまで。
(2012年、80分、カラー、鎌仲ひとみ監督)
◆7月7日(土)にはせんだいメディアテーク7Fスタジオシアターにて、ドキュメンタリー映画『核の傷 肥田舜太郎医師と内部被曝』(監督・脚本:マーク・プティジャン)の上映会が開催されます。
『3.11以後を生きる 肥田舜太郎医師講演より』(2012年、アップリンク製作、20分)も同時上映。
主催:「テロにも戦争にもNOを!」の会
上映会の詳細はこちら (みやぎNPO情報ネット)
http://www.miyagi-npo.gr.jp/cgi-local/info/part.cgitype=even&id=20120612153856
一人でも多くの方に観て頂きたい作品のため、7月6日(金)18:00会場/18:30上映日をもう一日増やしました。7月4日(水)と6日(金)のあわせて2回の上映となります。
さらに料金も当初1000円としておりましたが、800円(軽食付き)と変更いたしました。
(尚、すでに4日で予約をされた方で6日に変更を希望される方はお手数ですが、再度連絡お願いいたします。)
◆日時:7月4日(水)・6日(金)開場18:00/上映18:30 主催・会場:右岸の羊座 参加費:800円(軽食付き) 協力:みやぎヒューマンドキュメンタリーを観る会 問合せ・申し込み先:右岸の羊座/022-721-1094 uganhits@gmail.com
http://www.naibuhibaku-ikinuku.com/ (公式サイト)
(2012年、80分、カラー、鎌仲ひとみ監督)
ロボット 完全版 (シャンコール監督、インド、177分)
http://robot-movie.com/ (公式サイト)
【こんなお話】
10年もの月日をかけて、
(TBCみやぎ映画情報より転載)
【KATZの独断と偏見】
「ムトゥ 踊るマハラジャ」で、カルト的熱狂を生んだインド映画が、
(鎌仲ひとみ監督、80分、2012年、カラー)
まもりたい!未来のために。
内部被ばくの時代を私たちはどうやって生き抜いていくのか?
原発事故後の日本で命を守りながら前向きに生きていきたい全ての人たちへ。
専門家たちと福島からのメッセージ!
未知なる危機に備えて 監督 鎌仲ひとみ
2011年3月に起きた東北大震災によって原発が4つも爆発してしまった、その後の世界に私たちは生きている。大量の放射性物質が放出され、広範囲に拡散したことは解っているが、ではどれだけ出たのか実は正確な情報がない。放射性物質は環境に溶け込み、生態系に入り込んだ。呼吸や汚染された水・食品を通じて引き起こされる内部被ばくは、この時代に生きる私たち全員の問題となった。これからいったい何が起きるのか、正確に予測できる人は実はいない。ただできることはありとあらゆる情報と可能性を吟味して、「命」を守る努力をするということだ。放射能は様々な局面で「命」の脅威となりえる。私たちは生き抜かねばならない、そのためのささやかな助けとなればとこの作品を作った。
◆日時:7月4日(水)開場18:00/上映18:30 主催・会場:右岸の羊座 参加費:1000円 協力:みやぎヒューマンドキュメンタリーを観る会 問合せ・申し込み先:右岸の羊座/022-721-1094 uganhits@gmail.com
『新藤兼人の映画著作集Ⅰ―殺意と想像―』(1970年、ポーリエ企画発行)より抜粋
プロのきびしさをわたしに最初に思いしらせたのは溝口健二だ。「君は芝居というものをしりません」といわれたとき、すぐにわたしは心で反発した。芝居なぞとは古い!ドラマは人間を書くんだ、芝居を書くんではないと。芝居ということばを、泣いたり、笑ったり、涙をしぼる悲劇劇場をみせたり、役者の芸の積み重ねだったり、と若いわたしは軽蔑していたのだ。そのくせ、涙をしぼる舞台も芸ごとも、なにひとつ深くはきわめていなかったのである。ただ若さの特権で古いものを否定すればいいと思いあがっていたのだ。怖ろしいものがしだいにわたしをおし包んできた。一人では芝居にならない。二人以上でないと人間は語りあえない、三人になれば三角の地点で向き合える。四角になれば四つの角度の葛藤が起きるのではないか。芝居になるかならないかということは、人間同志が語りあえるかあえないかの条件なのである。
“忠臣蔵”のとき、大石内蔵助が、江戸の主君のことを思って夕闇の縁に独り佇みところがシナリオに書いてあった。わたしはその演出のとき美術をやったのだからつきまとって観察していたのだが、シナリオには、庭に咲く白い花(何の花であったか)をみて、大石がじっと佇んでいることが書いてある。花などにたくして情景の描写や心情などを語るのは映画がよくやる手であって、ありふれているともいえるし、また何べん使っても悪くはない手である。そのとき溝口さんは、台本をたたいて腹だたし気にいったものだ”花などは芝居をしません。花の気持ちをどうして撮るのですか”なるほど、花は芝居をしない、しかし花を使って(この場合適当であるかどうかはわからないが)心理描写の手段とするのは映像を言語とする映画の独特の手法であるが、頑としてそれをうけつけないところに溝口健二の面目がある。溝口健二は溝口的演出の自由をもつと同時に窮屈さももたねばなるまい、それが作家の個性だし、作家とはそういう不自由なものである。一人の信頼するシナリオライターをつかまえて、猛々しい調子で”君は頭が悪いからシナリオを書くのをやめ給え”といった溝口健二。また一人の尊敬する役者をつかまえて憎々し気に”君のようなヘタな役者は死に給え”と叫んだ溝口健二。
その時、溝口健二は、力をこめて自分を刺していたのだ。人は地上から消えてしまうと、あとには何も残らない。親しく接した人が面影を伝えるにしても語りつたえでしかない。またその語りつたえた人が地上から姿を消してしまうとただ読み物としての人物像が残るのみであって、紙くさい古びたものになる。そしてやがて何千年もたてばおそらくまったく消滅してしまうだろう。それをわたしも信じる。わたしがここで溝口さんのことにたくさんふれたのは、溝口健二を思うとき、刺す勇気を新たに教えてくれる人だったからである。(終)
昨年7月の羊座上映会で、多くのお客様に鑑賞頂いたドキュメンタリー映画『小三治』。
アンコール上映を10日(日)午後2時と5時の2回行う事となりました。昨年見逃した方、もう一度小三治さんに会いたい方、皆さんご参加下さい。お待ちしています。料金800円。
(2009年、104分、監督・康宇政監督、出演・柳家小三治、柳家三三、入船亭扇橋ほか、
語り・梅沢昌代、製作・オフィス・シマ、ヒポコミュニケーションズ)
(79分、日本、わたなべりんたろう監督)
日時:6月9日(土) 19:00開始(18:30開場) 場所:せんだいメディアテーク7Fスタジオシアター
料金:1000円 *上映終了後監督のトークがあります。
http://311everydayliving.com/ (『3.11日常』オフィシャルサイト)
http://d.hatena.ne.jp/HotFuzz/20111113 (わたなべりんたろう日記)
『新藤兼人の映画著作集Ⅰ―殺意と想像―』(1970年、ポーリエ企画発行)より抜粋
一人のライターを刺し殺したい。いきいきした強力なライターを、ただひと突きで刺し殺したい、わたしはカッカッと燃える熱気でからだのうずきを感じるときがある。なんのために仕事をするか、まずは食わねばならぬ、それはしれたことだ、食うためには努力はできるが熱狂はできない、熱狂しなければシナリオは刺せない、わたしは溝口健二に刺されたとき、生活の不安でまず足がふるえたが、ほんとうは仕事への怖れでで全身がふるえた。それまでシナリオなんて仕事はイキで優雅な字を書くショウバイと心得ていた。荒々しく歯を鳴らしてわたりあい、たおしあうものとはしらなかったのだ。(中略)溝口健二のように、刺すか刺されるか、斬るか斬られるか、つねに対決の身がまえを前面にだしていないすぐれた才能が消耗し、精神がちかんしたとき、しぜん勝負師の気魂は失われて、人間はまるくなり、刺したりする暴力などには真に嫌悪をおぼえる善人になってしまうのであるが、そのときその人間の作家は死んでいるのである。(中略)刺すか刺されるかでは、溝口健二はつねに自分自身を刺しつづけて生きてきた。一年ばかりを準備をして、配役もやったときめて、いざかかろうというときに「やめます」といって、門をとざして出てこようとしなかったこともある。ながい人生の、たくさんの仕事だから、一本ぐらい気をぬいてもいいではないか、ということが溝口さんには通用しない、徹底してまず自分に正直だった。人間はながい旅路を生きる、ながい時間があるようだが、仕事の時間というものはごく少い、とわたしに語った人がいる。八ヶ岳山麓の考古学者で、一生を投げうって縄文土器を掘り出した人だ。八十になるまで五十年も掘りつづけたが、仕事の時間はまことに少なかったと笑って語る人であった。
シナリオを趣味で書いている人がいる。それはいいことだとわたしはいっている。しかしほんとうはさんせいしない。趣味でやればいつでも退ける。他人を傷つけることはないし、なにより自分が傷つかない。こういう人のシナリオは刺したり刺されたりはしないから安全である。なにごともフタマタということはもっとも卑怯だ。卑怯な精神ではシナリオは書けない。書くことはたたかいである。たたかいに二つの道はない。ただ相手をたおすのみである。だれでも一生に一本はすぐれたシナリオを書く条件がある。それは自分という天下にたったひとりの人間をよく知っているから自分を書けばいいのである。しかしそれでも趣味では書けない。余技ではいけない。完全にシナリオという世界に籍を移さなねば書けない。(つづく)