青池憲司監督「私のドキュメンタリー遍歴」2

青池憲司監督トーク

「私のドキュメンタリー映画遍歴」(破の巻)

2012年9月30日 @右岸の羊座

 【口上

おのれが喋ったことを文字にして読みかえすと、いやはや、これはこれは・・・という気分になってきます。そこですこしばかり手をくわえて体裁を整えようとするのですが、これがまた一筋縄ではいきません。ままよ、喋ったことは喋ったことだ、と以下第2回「破」の巻、いかなることにあいなりますか。

■映画が「第3の道」だと直感した

さて、僕は1970年に再び上京します。はっきりした目標を持たぬまま、ふらっと東京へ出て行きました。東京で何をしようかなと思って、ああそうだ、映画の仕事というのもいいかなと、またしても無謀にも思ったわけです。なぜ映画の仕事かというと、60年代を生活しながら生きてきて、いろんな社会的な運動に参加した経験が自然に背中を押したような格好でした。

当時はベトナム反戦にしても、大学解体の全共闘運動にしても、結構政治闘争の色合いが強かったわけです。政治闘争というのは、党派がいろいろあります。中でも一番メジャーなのは日本共産党や社会党であるわけですが、当時は、そうした既成左翼を否定する全学連のいろんな党派がありました。

そうした党派(新左翼)は、社会の支持を受けて自分たちの運動が盛り上がっている間はいいのですが、うまくいかなくて下り坂になってくると、互いに足の引っ張り合いをするわけです。政治闘争は白か黒か、右か左かの二者択一になりがちです。そういう選択肢しかないのが嫌だなという気持ちが僕にはありました。右でも左でもない第3の道をなぜ選べないのかと思い悩んでいたのです。そして、映画作りなら、もっといろんな価値をふくみこんだ第3の選択肢になり得るはずだと、非常に乱暴な論理だったのかもしれませんが、僕にはそういう確信があったのです。

■30歳から監督を志した2人

それで土本典昭さんのところへ行って、実は映画をやりたいのだけれど、どこか紹介してくれませんかと言ったら、土本典昭さんは、ちょっと間を置いてから「お前、幾つになった」と聞いてきました。そのとき僕は30歳でしたが、30歳から映画を始めるなどというやつはまずいないわけです。普通はもっとずっと早い。当時の風潮では、大学時代から撮影所にアルバイトに行き、あるいは製作プロダクションのバイトなどを経験して、そのまま映画の世界に入るのが一つの道でした。だから20代の初めくらいから映画の社会で活躍し、優秀なやつなら28、29歳で監督作品を撮るという時代でしたから。

「やめておいたほうがいいよ」と、土本さんははっきり言いました。封建的とまではいかなくても、古いしきたりがあるのが、まだそのころの映画の世界でしたから。映画作品の中でこそ民主主義とか、非常に開放的な社会や人間、イデオロギーを表現しながら、映画作りの現場の実態は、監督を頂点にした縦構造のヒエラルキーそのものという雰囲気もありました。僕が30歳でそういう世界に入って、仮に助監督をやったとしても、「18、19歳のガキと同じように使いっパシリから始めるなんてできないだろう」と、土本さんは気遣ってくれたのです。

僕は、「パシリばかりでは嫌ですが、そういうことがあっても、やってみたいとは思います」と正直な気持ちを口にしました。すると土本さんは、いきなり「そうか」と言って大きな声で笑うのです。そして、「実は、俺も映画の世界に入ったのは30歳のときさ」と、言うわけです。あのときの驚き、そして目の前がぱっと開けてくるような思いは、ちょっと忘れられません。

土本さんのことをもう少しお話ししますと、日本がアジア太平洋戦争に負けて、いろんなところで民主化が叫ばれた時代に、大学に全学連が結成されたのです(1948年)。彼は全学連の初代副委員長なのです。初代の委員長は武井昭夫さん。後に文芸評論家として、また、新日本文学会の芸術運動家として活動されています。東大の武井さんが全学連の委員長。土本さんは早稲田で副委員長。そういう体制で戦後の学生運動のある時期をずっと引っ張ってきた時代があったのです。

■『やさしいにっぽん人』のスタッフに

土本さんは、政治に直接かかわった時期を経て、その世界を離れ、べつの何かをやろうかと考えたときに、映画の世界を選択するわけです。彼のようなすぐれた映画監督と僕をくらべるつもりはまったくありませんが、30歳から映画を始めたという共通点があったことを、そのときに初めて知ったのです。

僕が30歳で映画の世界に入ったそのときに、土本さんが準備中だった作品が、水俣シリーズの第1作、『水俣 患者さんとその世界』でした。僕には、あわよくば、その土本作品のスタッフになろうという下心があったのですが、残念ながらそのときにはスタッフ編成が全部終っていて、入り込めませんでした。

しかし、同じ東プロダクションで東陽一監督が劇映画を準備していて、その作品のスタッフにと、土本さんは紹介してくれた。それで東陽一監督のスタッフに製作進行という役割でついたのが、僕の実作者としての映画世界の第一歩でした。『やさしいにっぽん人』というタイトルで、河原崎長一郎さんと緑魔子さんの主演作品です。

土本作品『水俣 患者さんとその世界』の撮影助手が一之瀬正史さんで、その後、おたがいに一本立ちして映画を撮るようになり、今回も石巻でいっしょに映画を作りました。『3月11日を生きて〜石巻・門脇小・人びと・ことば〜』と『津波のあとの時間割〜石巻・門脇小・1年の記録〜』です。一之瀬さんとはたがいに助手時代の1970年ころから、40年間以上のお付き合いということになります。

■われらの映画館を作ってしまえ

1970年以降、僕は東陽一作品の製作進行と助監督を3本務めました。『やさしいにっぽん人』の次が『日本妖怪伝サトリ』で、これはあまり上映されていない作品です。そして3本目が1978年の『サード』。永島敏行と森下愛子主演の映画。この映画は「キネマ旬報」のその年のベストワンに輝きました。

『やさしいにっぽん人』は内容が優れていたばかりか、劇映画の上映スタイルの点でも画期的でした。当時、ドキュメンタリー映画の場合は、各地で自主上映会が企画されて全国に普及していく回路がありました。しかし、劇映画の上映館は大手が独占していました。劇映画を独立プロダクションが自主製作して自主上映するなどということは、新藤兼人さんや山本薩夫さんなどの独立プロを除けば、あまり考えられなかった時代でした。

東プロダクションが自主制作した『やさしいにっぽん人』の上映をどうするか? 今のようなミニシアターは全くありませんでしたし、アート系の映画館もないわけですから。当時は唯一、アートシアター新宿文化という小屋(映画館)があり、そこで短期間上映されることはあったとしても、『水俣』などドキュメンタリー映画のように広く全国的に見られるという機会は、独立プロの劇映画では皆無でした。

でも当時の僕らは、なんとかして『やさしいにっぽん人』を少しでも多くの人に見てもらいたいと思った。それで、どこも上映してくれないのなら自分たちで映画館を作ってしまえと、バカなことを考えたわけです。映画屋というのはバカなことを考えた途端にすぐに実行してしまいます。僕もその一人として、小屋づくりに猛進したのです。

■高円寺の手作りお座敷映画館

小屋さがしをどうしたか? 70年代には、今と違ってインターネットも検索エンジンもありませんから、東京都の分厚い職業別電話帳を開いて、不動産屋に片端から電話をかけまくるわけです。これこれの適当な物件はないかと、一週間くらい毎日5、6時間ずつ電話をしていたら、あるとき、池袋にいい物件があるというのです。「ただし、あそこは電気が来てないかな」と、その不動産屋は言うのです。

そこは東京拘置所(巣鴨プリズン)でした。今はサンシャインシティになっているところ。あれが昔の東京拘置所のあった場所で、戦争犯罪人などが入っていた施設でした。要するにその不動産屋は、僕らおかしな連中をからかっていたわけです。空き部屋がたくさんあるぞって。からかわれているとは知りながらも、ときにはそんなおふざけがあってもいいかと、こっちも楽しみながら、めげずに電話をかけ続けていました。

やがて、中央線の高円寺駅前に、まだ出来立てのビルが見つかりました。1階から3階まではテナントで埋まっているけれど、地下室ならまだ空いていると。ビルのオーナーは、不動産屋さんの話によれば、「何かやりたい若い連中がいるなら3か月限定で貸してもいい」と、いたって物分かりのいい人だという。見に行くとコンクリートの打ちっ放しで、床もでこぼこしているけれど、僕らに不満があるはずもなく、迷わず契約して小屋(映画館)づくりを始めました。

床のコンクリートを削(はつ)り、椅子を買うお金がないのでの、畳屋さんに古畳を1枚10円で何十枚か払い下げてもらって、それを敷いて客席にしました。畳敷きの映画館です。そして、きっちり4:3の黄金分割のスクリーンを張り、映写室の壁はベニヤ板とベニヤ板の間に畳を挟みました。畳は吸音材にもなるので防音装置の代わりにして映写室を作ったのです。映写機は16ミリを2台備えて、スイッチで切り替える方式。そんな手づくりの映画館を「やさしいにっぽん人劇場 アロンジアロンゾ」と名付けて、僕らは3か月間の興業を開始しました。「アロンジアロンゾallons-y, Alonzo」はゴダールの『気狂いピエロ』に出てくるセリフで、原語はスペイン語、「さあ、いこう!」という意味です。そのころの僕らの気分にぴったりでしたね。 命名は川上皓市キャメラマン(『やさしいにっぽん人』撮影助手)。1971年夏から秋へかけてのことです。

■学生時代の森田芳光短編も上映

3か月の興業成績は10万円くらいの赤字でした。僕らにとって、この結果は予想外の好成績で、皆で喜んだものです。赤字で喜んじゃまずいんですが・・・アロンジアロンゾでは、『やさしいにっぽん人』と『水俣 患者さんとその世界』の2本をメーンにして、他のドキュメンタリー作品もずいぶんやりました。亀井さんの作品をはじめ、戦前から戦後の名だたる作品はほぼ全部やったと思います。

当時は、若いドキュメンタリストの作品は上映する場所がなかったので、そういう作家たちに積極的に声を掛けて作品を集めました。絵画の展覧会で「アンデパンダン」という言葉があります。無審査で、つまり持ってきたものは全部展覧するという意味ですが、僕らは映画でもそれをやろうと、シネマ・アンデパンダン展というキャッチフレーズであちこちに呼び掛け、若い人たちの作品が続々と集まってきたのを覚えています。

その作品の中に一つ、際立って面白い8ミリ作品がありました。十数秒(数十秒?)の短い作品で、ロケットというのでしょうか、女性が首に下げて中に写真を入れるアクセサリーがありますね。それ風の、卵型の女性の写真が静止画でじっと映っているのです。しばらくすると、ふっとフェードアウトしていくのですが、その消えかけた瞬間に画面の外から「お母さん」という声が被ってきます。

これはタイトルが『A Mother』という作品で、中身はそれだけのことなのですが、何とも言えない味わいがあって面白い。仲間たちの間でも上映しながら話題になっていました。これを作ったのは、当時日大芸術学部の森田という学生で、この人が後の森田芳光になるとは、当時はうかがいべくもありませんでした。

そんなふうに、僕が映画の自主製作者になっていったときに、上映場所として自前の小屋(映画館)を作るという発想が湧いたのは、シネクラブ活動のおかげだったと思っていいます。自分自身が見たい映画を見る場所をどうやって確保するのかとやってきた、その経験がふっとよみがえり、映画館でやってくれないのなら自前で小屋を作ってしまえ、みたいな。1971年とはそういう、ちょっと忘れられない年でした。

(「私のドキュメンタリー映画遍歴」破の巻・了)

 

青池憲司監督「私のドキュメンタリー遍歴」1

■青池憲司監督 『琵琶法師 山鹿良之』上映前あいさつ

2012年9月30日 @右岸の羊座

 これからご覧になる、映画『琵琶法師 山鹿良之』について、少しだけ解説させていただきます。この映画は今から19年前、1993年の作品です。ドキュメンタリー映画は、今ではほとんどがビデオで撮影さますが、この映画は16ミリフィルムで撮りました。DVD版もありますが、今日は「右岸の羊座」の大越弘美さん、大石洋三さんに便宜を図っていただいたおかげでフィルムのプリントで見ていただくことができます。

私の映画は、個人よりも人間の集団を扱うことが多いのです。集団の動きを撮ることに非常に関心があって、だいたいそういう映画を作ってきました。しかし、この『琵琶法師 山鹿良之』では、まさに山鹿良之さん(当時91歳)という一人の人物と向かい合って作った、私の映画の中では珍しい作品です。

山鹿さんのことを、僕らは親しみを込めて「じっちゃん」「山鹿じっちゃん」と呼んでいました。九州の大牟田市から山間部へ入った南関町に住んでおられて、もともと少年時代から目が悪くて琵琶法師という芸の道に入った人なのですが、93歳でお会いしたときには、耳もかなり遠くなっていました。でも、一人の人間として素晴らしく魅力的な存在でした。

琵琶という楽器には薩摩琵琶、肥後琵琶、筑前琵琶などいろいろの流派がありますが、山鹿さんは肥後琵琶の弾き手です。僕は、芸能師としての山鹿さんにも惚れたのですが、それと同時に、まさにじっちゃんと呼び掛けたくなるような人間としての面にも非常に関心を持ってこの人を撮りました。

東京から九州へ何度も出掛けて行って撮ったのですが、南関町のじっちゃんの家の近くに宿舎を構えて陣取るという、いつものスタイルは取りませんでした。このときは「出会いがしらの一本勝負」のつもりだったのです。じっちゃんと完全に親しくなってからカメラを回すよりも、個対個、一人の琵琶弾き対一映画監督の突然の出会いを貫いた。剣道でいう「野試合」のような形でいきなり勝負を挑んで、それを何回か繰り返して撮りました。私のほかの映画とは、ちょっと違う作り方をしてみたのです。

見ていただいた後に、皆さんのご感想もいただきながらまたお話をしたいと思います。それでは、始めましょうか。

熊本県在住の現代の琵琶法師・山鹿良之が語る「小栗判官」の物語と日常生活で構成されるドキュメンタリー。熊本県山鹿市の芝居小屋・八千代座で「小栗判官」の幕は開き、村のお宮の御堂、旧家の座敷を経て東京の浅草木馬亭へと受け継がれていく。同時に、一日のはじめに仏壇に供え物を捧げ、好物の食事を自ら作って食する庶民としての姿が映される。監督は「ベンポスタ・子ども共和国」の青池憲司で、ナレーションの一部も担当している。92年度キネマ旬報文化映画ベスト・テン第4位。(16ミリ)

青池憲司監督トーク 「私のドキュメンタリー映画遍歴」

2012年9月30日 @右岸の羊座

 ■フィルム映画は絶滅危惧種?

皆さんもニュースでご存じかもしれませんが、ハリウッドが今、世界中の映画館を全部デジタル化して、フィルムではもう上映させないという非道なことを仕掛けています。大きな劇場、商業館は、すでにほとんどがデジタル化されてしまいました。フィルムでプリントを作って上映することが、普通の劇場ではだんだんなくなっています。映画館から映写機が消えつつあり、映写機の製造も中止されてきました。フィルムで映画はもはや絶滅危惧種に近い。ハリウッド資本の世界支配の一環と言えるでしょう。そういうご時世です。

今日ご覧いただいた映画も、DVD版が別にあるのですが、あえて16ミリプリントで上映してもらったのです。皆さんはフィルムで、こういう形で映画を見る機会は、これからはあまりないのではないでしょうか。

■失われた「顔」を取り戻したい

さて、「私のドキュメンタリー遍歴」です。なんだか、すごいタイトルをいただいてしまったのですが、まとまった話にならないかもしれません。その前にちょっと、今日の映画の感想をお話しします。自分の映画に感想を言うのも変なものなのですが、僕も久しぶりに見ましたので。

この『琵琶法師 山鹿良之』は製作が1992年、公開が93年。もう20年前の映画なのですが、20年前には、まさにああいう暮らしがあったのです。もちろん九州の山間部という事情もあります。でも僕はこの映画を見ながら、今度の東日本大震災の地震や津波で被災した、ここ東北の人たちのことを想起してしまいました。暮らしの形態もそうなのですが、ああいう顔をした人びとのことです。特にこの映画の中で、若宮神社で夜籠り(よごもり)を撮影したときに、集まってくれた土地のおじさんやおばさんたちです。女性のほうが多かったのですが、ああいう顔をした日本人は、今はあまり見られなくなってきたと思うのです。

石巻で撮影をしている間に牡鹿半島に行きました。そこでは撮影はしなかったのですが、車を止めて立ち話をした年配世代の人たちに、やはりああいう顔を見たのです。そのときにはこの映画を思い返さなかったのですが、今日これを見て、あらためて牡鹿の人たちの顔がしみじみ浮かんできました。それは、言葉にしてしまうとよそよそしくなるかもしれませんが、日本の近代が失ったものの大きさを、あらためて思います。ああいう昔の暮らしに戻ろうというセンチメントではなく、失ってきたものを自覚的に取り返したい。今回、津波の後に石巻に入って撮影をしてきたプロセスと、今日の映画とを往復させてみると、そんな思いがします。

■『小栗判官』は説話的な悲しみ

さて、話はあちこち飛びますが、この映画に出てくる『小栗判官』の物語は、日本人が生み出した壮大な説話だと思うのです。神話とは違います。総称的には神話も説話ですが、神話には絶対権力的なイメージがあります。これは庶民が生み出した物語で、日本人の心性に大きく関わっていると思うのです。例えば、物語の主人公・小栗判官が人間ではない生き物と交わるような妖異的な設定。そして、あの転生のストーリーです。死んで生まれ変わっていく。それは、人が人に生まれ変わるだけではなく、人が動物にも生まれ変わっていく転生譚。そうした想像力の紡ぎかた、感受する力が今、わたしたち(日本人)から失われつつあるのかと、自分の映画を見てあらためて思ったりしました。

今度の津波で失われた人の命や、動物の命のことを直線的に嘆き悲しむだけでなく、こうした転生譚として説話的に捉え返してみること、喪失と出会い直しの物語を作りだしていくことが必要だなと思います。

山鹿さんはこの映画の中で、神奈川県藤沢市の遊行寺(ゆぎょうじ)へ墓参りに行きます。けれどもそこにあるのは、実に不思議なことですが、実在しなかった人たちの墓なのです。つまり『小栗判官』の物語とは、そうしたお話を作り上げていくモデルのような人たちはいるのですが、小栗判官や照手姫、小栗十人衆などは実在しない人たちで、その人たちの墓が遊行寺に厳然としてある。これも日本人というか、人間がもっている心の作用の不思議です。津波で多くの人びとや動物たちの命が失われたのは大変つらい、不幸で悲しいことです。けれども、その嘆きについても、近代が失ってきた一つ前の時代の表現物などを借りて、あらためて捉え返してみたい。そういう作業が必要だと思います。

■不思議な色気の生きものがいた

東京・浅草の木馬亭で、『小栗判官』の最終段を語ったときの山鹿じっちゃんには、実に色気がありました。肌の艶もいいし、語りにも艶と、男の色気というか生きものの色気とでも言うべきものを91歳のじっちゃんがもっていたなと、この映画を見直すたびに思うのです。不思議な男と言いますか、男とか女とか性別の区別もなく、不思議な生きものを見ているような気分を、木馬亭のシーンに感じるのです。この映画を撮ったのは92年で、山鹿さんは96年に亡くなりました。私は、そのときには阪神大震災の住民復興を記録する仕事で神戸にいて、お葬式には行かれず残念でした。95歳の大往生でした。僕はドキュメンタリー映画を作る仕事の中で、どの作品でも印象深い人にたくさん出会ってきましたが、山鹿さんは際立っています。

■バタヤン風の琵琶法師

僕は、映画の最初の上映会はいつもご当地でやっています。この映画のときには、熊本県南関町の公民館が封切り会場になり、山鹿じっちゃん本人も一番前の席に陣取って見てくれました。ただ、目が不自由な状態ですから、実際にはほとんど見えていなかったと思います。終わった後、どうでしたかと尋ねると、「下手な琵琶弾きだなあ、あれは」と愉快そうに笑っていた。そんなじっちゃんの笑顔と笑い声が今でも強く印象に残っています。

僕は、芸のうまい下手ということよりも、山鹿さんの人間性と日々の暮しに非常に関心があったのですが、専門家に言わせると、芸のピークははるかに過ぎていた。手にしびれがきていて、バチさばきもミストーンがかなり目立っている。もっと以前の山鹿さんの芸は、あんなものではなかったとよく聞かされました。また、琵琶という楽器は、本当ならもっと立てて構えて弾くものなのですが、じっちゃんは左肩が悪くなっていて縦に支えられない。それで、まるで田端義夫さん(バタヤン)のギターのように横に構える独特のスタイルになってしまっています。でも、そうした芸の中身より、あの人そのものがもつ摩訶不思議な魅力を撮ることができたと思っています。

■映画館の闇を怖がったこども

さて、枕の話が長くなりましたが、そろそろ本題に入らないといけませんね。僕も、皆さんと同じように映画少年だったわけです。小学校低学年のころは映画がまさに娯楽の全盛期でした。うちの親は自営の商売をしていましたが、休みの日はたいてい家族で映画を見に行くのが習わしでした。ところが、映画が始まって暗闇になると、僕はその暗闇が怖くて泣き出してしまうのです。親は、仕方なく僕をロビーに連れ出すのですが、泣き止んで、一緒に戻って見ようとするとまた泣く。映画館の暗闇が怖いこどもだったのです。

それが、小学校6年生頃から中学時代には、一転して映画狂いになりまして。当時は2本立てや3本立ての映画館がずいぶんあった時代でした。ロードショーから2番館、3番館までいろいろありました。当時、小遣いをいくらもらっていたのかは覚えていませんが、個人商店というのは、そのへんに日銭がある環境なわけです。今のようにレジスターもありませんから、ときどき、そのへんの引き出しから小銭をくすねては、映画館に通いました。学校が終わってから、飯も食わずに3本立てを見て帰ると9時頃になってしまい、家に帰っても入れてもらえない。戸に鍵がかかっていて、がんがん叩いても駄目で、いつも締め出されていました。そのときは、もうしないと思うのですが、しばらくすると懲りずに繰り返す。僕の映画との出会いはそういう感じで始まったのです。

■アルバイト・映画・ジャズの東京暮らし

「遍歴」ということで、そんなお話から始めたのですけれども、高校時代は映画を見ることに明け暮れて、やがて高校生活が嫌になって、田舎を飛び出しました。東京の大学に通う先輩を頼り、下宿に転がり込んで新宿や渋谷で映画を見まくっていました。家出同然と言いますか、家出そのものでしたから、親からの仕送りなどはもちろんありません。今でいうフリーターでしょうか、当時はプータローという言葉がありましたが、月の半分くらいはアルバイト仕事をして、お金がたまるとそのバイトを辞めて映画とジャズにのめり込み、本を買いまくりました。お金が無くなると、読み終わった本を古本屋に売って少しの間をしのぎ、いよいよ金が無くなるとまたアルバイトをして、というような日々。17、8歳頃から、そんな東京暮らしを始めたのです。

■「浜松シネクラブ」が始動

それが、あるきっかけで田舎へ帰ることになりました。僕の田舎は静岡県浜松市です。その当時、映画はまだまだ全盛時代で、邦画6社(東宝、松竹、大映、東映、新東宝、日活)が面白い映画を量産していた時代です。田舎でも映画館通いは相変わらず続いていたのですが、今のようにミニシアターや、いわゆるアート系の映画館というのは全くない時代でした。だから、東京や名古屋や大阪でやっているドキュメンタリー映画を見たくても、田舎では掛けてくれる小屋(映画館)がないわけです。地元で見られない映画は、東京や名古屋に出かけて見ることをしばらく続けていたのですが、だんだん一人で見ているのがつまらなくなってきました。一人でいい映画を見ているより、仲間を集めて一緒に見るようなグループを作ろうと思ったのが、20代の半ばでした。

■土本典昭、黒木和雄にハマった

当時は「シネクラブ」という呼び方をしていました。シネクラブとは、今はミニシアターなどで見られるような映画を、自分たちの住んでいる町に借りてきて上映会を開く運動です。僕らは「浜松シネクラブ」という名前で活動を始めました。最初に上映した映画は、後年僕が東京へ出てくるきっかけになった土本典昭監督作品です。『水俣』シリーズで皆さんもご存じだと思います。土本さんが『水俣』を撮り始める前の『ある機関助士』『留学生チュアスイリン』など一連のドキュメンタリー映画を浜松で上映しました。

それから黒木和雄監督です。黒木さんには劇映画を撮り始める前、文化映画を作っていた時代がありました。『あるマラソンランナーの記録』、これは君原健二選手を撮った優れたドキュメンタリーでした。『わが愛北海道』は、ロードムーヴィ形式のPR映画。そういう作品や、当時は東京でも見る機会の少なかった映画を、自分たちの住む浜松で見ようということです。

小川紳介監督の『圧殺の森』や、『日本解放戦線 三里塚』をはじめとする一連の三里塚シリーズは、市民や学生に呼びかけた拡大上映会として開きました。

そうしたシネクラブ運動が、僕のドキュメンタリー映画との関わりのはしりだったといえます。僕は、劇映画とか記録映画といったジャンルにはこだわらず、映画そのものが全部大好きでした。ただ、劇映画はたいてい商業館で見られましたから、浜松シネクラブは結果的にドキュメンタリーに特化していきました。

ドキュメンタリー映画の何が面白いのかといえば、ある事象を描くとき、劇映画の場合はその対象にフィクションで迫るところを、ドキュメンタリーでは現実のほうから迫っていく点です。迫り方は違うとしても、そこで描かれる事象は、ともに映画的な面白さをもっている。映画的な真実として、ドキュメンタリーも劇映画もともに面白い。そういうことに目を開かされたのは、土本作品や黒木作品のおかげだったなと、今は思い返しています。

■亀井文夫が遍歴のルーツだった

日本のドキュメンタリー映画の歴史は、もちろん戦前から連綿とあるわけです。土本・黒木世代のもう一つ前の世代に、亀井文夫さんという監督がいました。この人は戦前・戦中に記録映画をたくさん作っていました。『戦ふ兵隊』『上海』など、すぐに思い出すタイトルがあります。あるいは『信濃風土記より小林一茶』なども。『戦ふ兵隊』は、特別に印象深い映画です。

太平洋戦争が始まる前の日中戦争の時代には、例えば陸軍省が東宝の文化映画部などに指示して戦意高揚映画をたくさん作らせたわけです。国民の意識を戦争に駆り立てるためのプロパガンダ映画です。そういう映画では、従軍カメラマンが一人で現地へ行き、ある部隊が中国戦線で戦いながら行軍していく後についていって記録を撮ってきます。そのフィルムを編集するのが監督の役割でした。

しかし亀井さんは、いわゆる戦意高揚映画はつくらない人でした。確かに行軍の記録としては撮ったままを伝えているのですが、そこに現地の村の民衆の顔が突如出てきたりします。つまり侵略される側の大衆の暮らしぶりなどを、カメラマンが撮ってきた映像の中から意図的に選び出してきちっと入れていく。

もちろん、陸軍省が最終的には許可を出しているわけですから、ぱっと見ると、「勝った、勝った、日本軍万歳」調のカットがそこここにあるのですが、日本の兵隊さんの行軍を中国の民衆がどんな表情で見ているのかもしっかりと盛り込まれているのが分かります。

戦後にそれらを見た評論家やわれわれの世代は、亀井さんは映画でアジア太平洋戦争に抵抗した人だったという捉え方をするのが一般的でした。ところが、あるときに亀井さんにお会いして、そんな感想を漏らすと、亀井さんは、「いや、僕は抵抗する気など全くなかったなあ。あえて言うなら、厭戦かな」と言うのです。反戦ではなく厭戦。反戦映画など作れる時代ではなかったと。

こちらの見方が浅かったと思いました。つまり、ドキュメンタリー映画づくりで、その時代の社会と作り手・作家がどう向き合ったのかということです。

■検閲をかわす方法

亀井さんは「僕の映画は反戦ではなく厭戦だよ」と言いましたが、当時は軍部が世の中を全部牛耳っていた時代ですから、映画作品は厳しく検閲されるのが当たり前でした。今の時代とは違って、あからさまに抵抗的な映画は撮れないわけです。とはいえ、軍部や国家主義のPR映画は作りたくない映画人としての誇りがありますから、行軍の忠実な記録映画の体裁を取りつつも、厭戦的な気持ち、あるいは抵抗の意思をどう盛り込むのかに意を尽くすわけです。

それは僕らの世代にとっては、想像はできますが、どうにも及ばない映画作りの精神的に高度なテクニックを要したであろうなと思うのです。今は、例えば「反原発」などと、メッセージをストレートに言える時代です。でも、そうではなかった時代に、彼らはどういうふうに映画を作っていったのか。つまり「反」という言葉を言えないときに「厭」ぐらいなら言えるのかと。その「厭」も、あからさまに言えば、すぐ御用になって留置所に入れられてしまいますから、検閲官たちをどうだますのかという非常にスリリングな映画作りをしてきたのだろうと思います。そういう緊張感は必ず作品にも表れますから、それもドキュメンタリー映画の見所だと思うのです。僕のドキュメンタリー映画遍歴の源流の一つともいえる、亀井さんの映画をぜひ多くの人に見てもらいたいと思います。

■アトラクティヴな時代の空気

そんな映画に触れたのが20代の半ばから後半にかけて。まだ映画製作には全く関わっていないころです。僕自身が映画の作り手になるとは、そのころは全く思っていなくて、映画少年の延長として好きな映画を見ていた時代でした。

亀井さんをはじめとして、土本さん、黒木さん、小川さん、ほかにも優れたドキュメンタリストの映画をたくさん見た1960年代あたりが、僕のドキュメンタリー映画遍歴のベースになっています。そのへんを、機会があれば振り返ってみるのも面白いのかなと思っています。今日、全部を語り尽くすことはできませんが、せっかくいいお題をいただいたのをきっかけに、いつかきちんとたどり直してみたいと思います。

さて、浜松シネクラブをやっていたころは、ちょうど全共闘による大学解体闘争とベトナム反戦運動がピークを迎えていた時代です。ですから、映画を見るだけでは収まらなくて、何かのデモがあると皆でデモにも出掛けました。昼間はデモ、夜は映画みたいな、そういう時代の空気だったのです。いや、時代の空気という言葉で俗っぽく流すことができない、アトラクティヴな時空間がそこにはありました。

■裕次郎とポルノの端境期

それはドキュメンタリー映画だけではなく、劇映画などいわゆる商業映画にも活力があふれていたからです。東映や日活の映画もそうでした。東宝や松竹は、どちらかというと公序良俗的な映画を作っていたのですが、東映や日活には、社会からはみ出したアウトロー的な映画がずいぶんありました。東映でいえば『唐獅子牡丹』シリーズ、日活でいえばロマンポルノの少し前、長谷部安春、藤田敏八あたりの時期。石原裕次郎は、もうそのころにはいい大人になっていましたから、その後の世代の日活映画です。

彼らは直接的には、反安保や大学解体、ベトナム反戦などを訴えるような映画は作りませんでしたが、やはりあの時代の空気に非常に敏感に反応していたと思うのです。ドキュメンタリーだけではなく、劇映画にもそういう作品が非常に多かった時代。

僕が、そういう時代に10代後半から20代を送れたことは、すごく幸せでした。こんな言い方をするとセンチメンタル・ジャーニイっぽくなりますが、みんな、それぞれの青春時代には大変なことがあって、それぞれに自分の時代だと実感するのが当然なのですけれど。僕もそんなふうに、浜松シネクラブをやることで当時の社会と向き合いながら映画館通いをしていたのです。

■東京・京都のシネクラブと交流

浜松シネクラブをやることで、ドキュメンタリー映画とより深く付き合うようになったころ、東京には「杉並シネクラブ」がありました。これはシネクラブ運動の元祖のような存在でした。杉並区は、都内でも映画作家や物書きや、評論家などがかなり住んでいる地域で、そういう人たちと映画好きの市民・学生が集って、街場の映画館では見られない映画を盛んに上映していました。

中心の一人に野田真吉さんという優れたドキュメンタリー映画監督がいて、民俗的な映画をたくさん撮っていました。今はTVでも伝統的な民俗芸能を見ることができますが、当時はなかなか目にするチャンスがなかったのです。野田さんは、また、表現方法の探求にも熱心で、数々の作品を残しました。僕の尊敬する映画監督の一人です。

一方、京都には、「京都SEEドキュメンタリーフィルム」がありました。見る、を意味するSEEです。こんな英語はないと思うのですが、記録映画を見る会みたいな。それを略して京都シドフと呼んでいました。ここは、京都市民の映画愛好家と撮影所の助監督たちで作られていました。助監督たちは、毎日のように映画を作る労働に従事しながらも、自分の思うような映画がちっとも作れないということで、勉強会を兼ねてシネクラブをやっていたのです。まえに、杉並シネクラブを元祖的な存在といいましたが、歴史的にはシドフの方が古いですね。

そういう3つのシネクラブがありまして、東京のシネクラブはどちらかというと理論的(「眼」という機関誌も出した)で、京都は助監督などがいることもあって、実際の映画作りとシンクロするような雰囲気がありました。浜松は、映画好きと地域での文化活動が結びついてシネクラブになってしまったような。ちょっと乱暴かもしれませんが、そんな区分けができるかと思うのです。浜松が地理的にほぼ真ん中なので、3つのシネクラブが浜名湖畔に合宿して互いの映画論をたたかわすみたいな、そんなこともやりました。浜松シネクラブの活動と仲間たち、杉並シネクラブ、京都シドフとともにした運動など、あらためてくわしくお話ししたいと思います。

【さて、「私のドキュメンタリー遍歴」、これからがさらに面白くなるところでございますが、なにせとりとめのないお喋り、お読みのみなさんにはさぞかしおつかれでございましょう。口演序段はこれにて打ち止め、近々あらためてお目にかかります】(山鹿良之師の語りに倣って)

(「私のドキュメンタリー遍歴」序・了)

2回目を11月20日up、3回目を12月10日upという分載にいたします。完成の際には、羊座で冊子にして刊行します。