新藤兼人監督3

『新藤兼人の映画著作集Ⅰ―殺意と想像―』(1970年、ポーリエ企画発行)より抜粋

一人のライターを刺し殺したい。いきいきした強力なライターを、ただひと突きで刺し殺したい、わたしはカッカッと燃える熱気でからだのうずきを感じるときがある。なんのために仕事をするか、まずは食わねばならぬ、それはしれたことだ、食うためには努力はできるが熱狂はできない、熱狂しなければシナリオは刺せない、わたしは溝口健二に刺されたとき、生活の不安でまず足がふるえたが、ほんとうは仕事への怖れでで全身がふるえた。それまでシナリオなんて仕事はイキで優雅な字を書くショウバイと心得ていた。荒々しく歯を鳴らしてわたりあい、たおしあうものとはしらなかったのだ。(中略)溝口健二のように、刺すか刺されるか、斬るか斬られるか、つねに対決の身がまえを前面にだしていないすぐれた才能が消耗し、精神がちかんしたとき、しぜん勝負師の気魂は失われて、人間はまるくなり、刺したりする暴力などには真に嫌悪をおぼえる善人になってしまうのであるが、そのときその人間の作家は死んでいるのである。(中略)刺すか刺されるかでは、溝口健二はつねに自分自身を刺しつづけて生きてきた。一年ばかりを準備をして、配役もやったときめて、いざかかろうというときに「やめます」といって、門をとざして出てこようとしなかったこともある。ながい人生の、たくさんの仕事だから、一本ぐらい気をぬいてもいいではないか、ということが溝口さんには通用しない、徹底してまず自分に正直だった。人間はながい旅路を生きる、ながい時間があるようだが、仕事の時間というものはごく少い、とわたしに語った人がいる。八ヶ岳山麓の考古学者で、一生を投げうって縄文土器を掘り出した人だ。八十になるまで五十年も掘りつづけたが、仕事の時間はまことに少なかったと笑って語る人であった。

シナリオを趣味で書いている人がいる。それはいいことだとわたしはいっている。しかしほんとうはさんせいしない。趣味でやればいつでも退ける。他人を傷つけることはないし、なにより自分が傷つかない。こういう人のシナリオは刺したり刺されたりはしないから安全である。なにごともフタマタということはもっとも卑怯だ。卑怯な精神ではシナリオは書けない。書くことはたたかいである。たたかいに二つの道はない。ただ相手をたおすのみである。だれでも一生に一本はすぐれたシナリオを書く条件がある。それは自分という天下にたったひとりの人間をよく知っているから自分を書けばいいのである。しかしそれでも趣味では書けない。余技ではいけない。完全にシナリオという世界に籍を移さなねば書けない。(つづく)

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です