作家の長部日出雄氏は「紙ヒコーキ通信3 映画は夢の祭り」(文藝春秋・1988年7月刊)の中で、浦山桐郎監督について幾度か記述している。
「(1985年)ソ連作家同盟の招待で、10月中旬からハバロフスク、モスクワ、レニングラード、トビリシ(グルジア共和国)を歴訪し、11月1日に帰えってきた新潟空港から自宅に電話して最初に聞いたのが、浦山桐郎監督の訃報でした。」
新幹線に乗り夜の上野駅に着いた長部氏は、「浦山さんが大好きだった浅草へ行き、並木藪蕎麦の座敷に坐って酒を口に含んでいるうちに、急速に寂しさと悲しみが盃の底から込み上げてきた。」
「翌日、浦山監督の自宅を訪ね、写真に御灯明をあげ」帰宅した長部氏は、『キューポラのある街』を見直した。「まったく、なんとよくできた作品なのだろう。これが映画なのだ。凡庸なショットがひとつもなく、すべての画面が自由な感覚と想像力に溢れ、柔軟な弾力に富んでいて、新鮮で清冽でみずみずしい。」「人間も風景も物も、何もかもが生きている。むろん浦山監督も-。正直にいって、ぼくは泣けて泣けて涙がとまらなかった。これがぼくの通夜だった。」
「浦山さんは『弱さ』と『貧しさ』にこだわり通した。その意味で彼は『戦後』の表現者であり、体現者だった。」
「浦山桐郎のリアリズムは、自然主義的なじめじめしたものではなく、清冽な抒情を湛えた詩的リアリズムである。『キューポラのある街』『非行少女』『私が棄てた女』の3本だけとっても、日本映画史に不滅の位置を占める監督であると、ぼくは確信する。作品の数は少なかったけれど、これほど名監督という呼び方がふさわしい人は珍しい。」(つづく)